月明かりが天窓から差し込んで、フィラの屋根裏部屋で丸くなっていたティナの背を照らした。ティナはぴくりと右の耳を動かし、窓の外へ耳を澄ませる。石畳の街路を、穏やかな風が吹きすぎていく気配がする。
ティナがフィラのいる『踊る小豚亭』へ来たのは昨夜のことだった。ティナが結界内に侵入した当日、つまりフィラの妹が竜の治療をした日を基準にすれば、その翌日の夜だ。踊る小豚亭は夕食を食べに来た人々で賑わっていた。裏口から入ってきたティナに、忙しく立ち働いていた酒場の女将が木製の小鉢にミルクを入れて出してくれた。食事を必要としないティナはそれには手をつけなかったのだが、存在を認められたことにはほっとしていた。
ティナとフィラがゆっくり話すことができたのは、それから数時間後、酒場が店じまいしてからだった。フィラは彼女が寝泊まりしている屋根裏へ上がるとき、ごく自然な動作でティナを抱き上げて運んだ。おやすみ、と声をかけた先ほどの女将も厨房で働いていた主人も、ティナに関しては何も口を出さなかった。たぶん、あらかじめフィラが話しておいてくれたのだろう。
屋根裏に上がった後、ティナはフィラに城で聞いてきたことをおおまかに、大幅にはしょって話した。ジュリアンからいろいろと説明は聞いたけれど、不本意なことにフィラに話せる事柄は決して多くはない。
ユリンの町を出た後、フィラとティナにはここ以上に適当な居場所がないということ。瞬間移動する体質は大変珍しいもので、下手をすると実験材料としてどこかの研究所に送られる可能性があるということ。そのため、もともと結界が張ってあるユリンの町から出ない方が得策だろうということ。話せる内容は、まとめてしまえばその程度だ。
「じゃあ、団長のこと、信用してもいいんだね」
ティナが一通り話し終えた後、いろいろとぼかして話したにもかかわらず、フィラはほっとした様子でそう言った。
「当面はね。僕はあいつ気にくわないけど、ほかにどうしようもないし」
「そっか」
寝藁に寝転がってティナと向かい合っているフィラが、自分でも意識していないのだろう微かな笑みを浮かべる。
「ちょっとフィラ」
ティナは半眼で呼びかけた。声の調子が妙に低くなってしまったが、しょうがないだろうと自分に言い訳をする。
「なんでそんな嬉しそうなのさ」
「嬉しそう? って、私が?」
フィラはきょとんとした表情で目を瞬かせた。どうやら自覚がなかったらしい。
「そうだよ。なんだよ。あいつのこと、信じたかったの?」
ティナが不満そうに尋ねると、フィラは迷うように視線を逸らして、小さくため息をついた。
「まあ、信じられるものなら信じてみたいとは……だって、ね」
不機嫌にしっぽを振るティナの額を人差し指でつつきながら、フィラはちらりと枕元に置かれた革表紙のノートに視線をやる。
「でも……どうしようかな」
革表紙を見つめるフィラの瞳は複雑そうなものだった。鍵付きで革表紙の堅牢な作りのノートは、ティナには見覚えのないものだ。
「それ、フィラの?」
「ううん」
フィラがはっとしてティナに向き直る。
「知り合いから……その、預かってるんだけど」
眉根を寄せるフィラの表情が、どう説明したらいいのかわからない、と、言葉よりも如実に物語っていた。
「ふうん」
なので、ティナはわざと興味なさそうに鼻を鳴らして、フィラがティナのために用意してくれた寝藁の上で丸くなる。フィラが話しにくいことを、わざわざ聞き出したいとは思わない。フィラがわずかに苦笑する気配がして、やがて声が降ってきた。
「おやすみ」
「おやすみ」
しっぽを大きく一回揺らしながら答えて、ティナは瞳を閉じる。そして考えた。
フィラは本当に、いろいろなことを忘れてしまっているらしい。
ティナが睡眠を必要としないということさえも、覚えていないのだから。
ティナが来てから数日後は、毎年恒例の夏祭りだった。午後からはソニアとレックスが出る射的の大会を見に行くことになっているけれど、午前中は時間が空いているフィラは、ティナと共に踊る小豚亭のカウンター席に腰掛けていた。まだ祭りも始まったばかりの早い時間だけれど、町はすでに興奮したざわめきに包まれている。閉店した店の中にも、その喧噪が微かに忍び込んできていた。
「今日って、町の外からも人が来るんだよね」
フィラは言いながら、外へ続く扉に視線をやる。酒場を切り盛りしているエディスとエルマーの夫妻は、既に二人連れだって祭りへ出かけてしまった後だ。他に人がいないので、ティナも猫のふりをする必要がない。
「誰か、私を知ってる人が来ないかなって、去年も思ってたんだけど」
「来ないと思うなあ。ユリンの関係者には知り合いいないと思うんだよね」
「そっか」
小さくため息をついたフィラを、ティナはゆっくりとしっぽを動かしながら見上げた。
「外のことが知りたいなら、自分で思い出せば良いんだよ」
「それは、そうなんだけど……自分のことでわかってることって、ピアノを弾けることと拳銃を持ってることくらいで……」
フィラは恨めしげにティナを見やる。
「ティナはあんまり昔のこと教えてくれないし。神様だったら記憶をぱっと戻すとかできないかなって、ちょっと期待してたんだけどな」
ティナは肩をすくめる代わりに、しっぽの先をちょろりと動かした。
「僕は誰とも契約してないから、自分が司っている以外の世界律に干渉するのは無理だよ」
フィラが頭の中に巨大な疑問符を浮かべたことを察したのか、ティナは素早く言い直す。
「つまり、光を少々操作するくらいの魔法しかできないし、したくないってこと。フィラが本当に思い出したければ、自力で思い出せるんじゃない? 仮に自分で記憶を封じてるとしたら、それしか方法がなかったりもするし」
「自分で? でも私、魔法は使えないよね?」
「魔力がないからね」
首をかしげるフィラに、ティナはあっさりと首肯した。
「でも記憶を自分で封じるって……私が記憶喪失になったの、もしかして魔法がらみなの?」
「さあ。可能性がなくはないけど」
はっきりしないティナの返答に、フィラの眉根は自然と寄っていく。
「私が魔法使えないのと記憶喪失は関係あるのかな。記憶と一緒に魔力も封じちゃったとか」
「それはないね。君に魔力がないのは昔っからだし」
「じゃあ、なんで?」
ティナはふいっと視線をそらし、カウンターのスツールから飛び降りた。
「僕にもわかんないよ。考えてもしょうがないんじゃない? 手がかりないんだからさ」
「そっか」
フィラは一つため息をつき、ティナに続いてスツールを滑り降りる。
「考えてもしょうがないなら、今日の所はお祭りに行きますか」
表通りに面した扉を押し開けると、祭りに浮かれた喧噪がどっと飛び込んできた。外へ踏み出し、『CLOSED』の札がかかっていることを確認しながら扉を閉める。
「時計塔広場は外から来た人たちの出店、城門前広場は午前中は剣術大会、午後は射的」
フィラはうきうきと並べ立てながら、ティナを抱き上げて自分の肩に乗せた。
「まずは、時計塔広場だね」
ユリンの町の人々だけが参加出来る城門前広場の競技と違って、定期市も兼ねた時計塔広場は外から来た人々でも賑わっている。警備の僧兵に見守られながら、フィラはのんびりと市場を見て回った。
いつものユリンでは見られない色とりどりの布や菓子類、普段は旅商人を待つしかない書物の類も、惜しげもなく並べて売られている。珍しい楽器を手にした吟遊詩人やジャグリングを披露する大道芸人に目を奪われながら、フィラは夏祭りの空気を満喫していた。
町の外に出ることが禁じられているユリンの人々にとっては、町の外の文化と大量に接することができる唯一のチャンスだから、時計塔広場の賑わいは夕暮れの市場の喧噪よりもずっと激しい。普段は目にすることもできないような珍しい異国の食べ物を紙皿に盛って売っている屋台、民族衣装を並べている露店、似顔絵を描く絵描きとモデルになっているユリンの町民。フィラも屋台で売っていたサボテンアイスに小銭を支払い、歩きながら味わう。
「それ、おいしいの?」
紙カップに入ったピンクとミントグリーンの二段重ねのアイスを食べながら歩いていると、ティナが気味悪そうに肩の上から尋ねてくる。
「意外と普通の味。ティナも食べてみる?」
「……いらない」
逡巡と言うよりは呆れたような沈黙の後で、ティナはため息混じりに断った。
「そう?」
フィラは呆れられたことを気にするでもなく、賑わう広場を歩き続ける。ガラス細工の動物を売っている商人の前で足を止め、口上に耳を傾けているうちにアイスは腹の中へ消えてしまった。残った紙カップを捨てるため、フィラは広場の隅に設置された公共ゴミ箱へ向かう。
気づいたのは、紙カップをゴミ箱に放り込んだ直後だった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
広場の隅を埋める建物の石壁に、フィラとティナの声が反響する。
「変、だよね」
思わず声を潜めるフィラに、ティナは不思議そうに小首を傾げた。ティナは気づいていないらしい。ざわめく広場の片隅の、その空間だけがなぜか静寂に包まれていた。すべての音が急に遠ざかったような気がして、フィラは思わず周囲を見回してしまう。広場を行き交う人の多さは変わっていない。気のせいかと思い直して歩き出そうと振り向いた瞬間、数メートル離れた場所に立っていた銀髪の女占い師と視線が合った。
広場に面した小間物屋のショーウィンドウを背景に、彼女は微笑んでいた。天幕も囲いも何もなく、水晶玉やタロットを置いた机すらもない。彼女が占い師であることを示すのは、その足下に置かれている『占いいたします』の看板だけだった。占い師は、まっすぐフィラに視線と笑顔を向けている。
「こんにちは、フィラ。はじめまして」
静かで穏やかな声がフィラの所まで届いたのは、この片隅の一角だけが静まりかえっていたせいだ。
「は、はじめまして……」
反射的に挨拶を返してから、フィラははっとして占い師の顔を凝視した。作り物のように整った顔立ちと腰まで届くほど長い銀色の髪のせいで、年齢は判然としない。一見すると二十代後半くらいの大人っぽい美女だけれど、顔を上げるときの一瞬の表情はフィラと同い年くらいの少女のようにも見えた。見覚えはない。
「私の名は『風』。どうぞウィンドとお呼び下さい」
ウィンドと名乗った占い師は優雅に一礼した。
「あの、どうして私の名前を?」
身構えながらも数歩近づいて尋ねるフィラに、ウィンドはあくまで穏やかな笑顔を向ける。
「私は旅の占い師。あなたのことを知っているのは、私が知りたいと願ったから。私たちの願いは交差している。同じ願いを持つ限り、いつの日か、どこかで私たちの運命は交わる。だから私は、あなたのことを知りたいと願ったのです」
「う、運命……?」
どうしよう、これは何か変な壷とか売りつけられるんじゃなかろうか。フィラは急に不安になってくる。
「本当は、あなたは一度選んでいるのです」
思わず一歩後ずさったフィラに、占い師は変わらない口調で続けた。
「え……?」
「私と同じ願いを。でも、今のあなたは覚えていない」
覚えていない。二年以上前の記憶は、確かに自分にはない。その失われた記憶の中で、自分と彼女は会っていたのだろうか?
――わからない。
困惑するフィラに、ウィンドと名乗った占い師はなだめるような微笑を浮かべた。
「もしも知りたいことがあるときは、私を訪ねてきてください。あなたが求めるその時に、私もあなたに会いたいと願うでしょう」
「それって、どういう意味……」
尋ねかけたフィラの顔に、ふいに突風が吹き付ける。目に入りかけた砂に一瞬目を閉じ、もう一度開いたとき、ウィンドの姿は既にそこにはなかった。『占いいたします』の看板すら、幻のように消え去っている。
「い、いない!? 消えた!? どうして!?」
思わず一番手近にいたティナに詰め寄ると、ティナは面倒くさそうに視線を逸らし、やる気なさそうに口を開いた。
「知らにゃー」
「中途半端に猫の真似はやめようよ……」
フィラはがっくりと脱力しながらため息をつく。
「知りたいことがあるときは訪ねてきてくださいって……今、知りたいことができたとこなのに」
彼女が誰で、本当に自分と会ったことがあるのかどうか、とか。彼女が言う『願い』とはいったい何なのか、とか。
フィラの記憶は滝壺で拾われた後、酒場で目を覚ましたときより前に戻ってはくれない。今までそんなに不安になったことはなかったはずなのに、急に深い霧に視界を奪われたときのような、頼りない感覚と欠落感が襲いかかってくる。自分の存在が、急にあやふやなものになってしまったような――
こんなことは初めてだった。今まで、記憶を取り戻したいとは思っても、記憶がないことを不安に思ったことはなかった。エディスやエルマーが保護してくれたことや、ソニアやレックスと友達になれたことで、ユリンの町で暮らしていくことに全く違和感を感じずにすんでいたおかげだ。それなのに、こうして自分の過去を突きつけられたとたん、急に不安を感じるのは何故なのだろう。
「思い出さなきゃ……いけないのかな」
「んー、別に僕はその必要があるとは思わないけど」
ティナがあくび混じりに答える。
「無理しなくていいんじゃない?」
「無理……する、つもりはないけど……」
フィラはもう一度ため息をついて、ウィンドが立っていたあたりに視線をやった。
「ホントに何にも思い出せないの?」
ティナが微妙な期待を含んだ調子で尋ねる。
「急に変なこと思い出したりはするんだけど……意識して思い出そうとすると、頭の中に靄がかかってきちゃう感じで」
フィラは小さくため息をつき、軽く頬をふくらませた。
「ピアノの曲なんかは暗譜してるのになあ」
「……変なの」
ティナは半眼でぼそりと呟き、前へ向き直る。
「私もそう思う」
フィラもうなずき、広場へ取って返そうと顔を上げる。楽しげな男性の声が話しかけてきたのは、ちょうどその瞬間だった。
「よう、嬢ちゃん」
「うわ!?」
「にゃあ!?」
フィラとティナは同時に驚いて毛を逆立てた。ティナが驚いた拍子に思わず爪を立ててしまったらしく、右肩に微かな痛みが刺さる。