今日で二年経った。
朝目が覚めてすぐ、フィラは屋根裏の寝藁の上でそう考えた。
フィラがこのユリンの町へやって来たのは、ちょうど二年前のよく晴れた初夏の明け方だった。
その時その場にいたレックスの話によると、風泣き山の滝壺の上空に突如光とともに現れたのだという。そしてそのまま滝壺に落下した。第一発見者である猟師見習いのレックスがすぐに飛び込んで助け出してくれなければ、きっとそのまま溺れていただろう。
意識を失っていたフィラはその後運び込まれた酒場――『踊る小豚亭』で目を覚まし、主人のエルマーにどこから来たのかと訊ねられて言葉を失った。自分の名前以外何一つ思い出せなかったのだ。フィラの持ち物は丈夫な帆布製のトートバッグ一つきりで、身分証明書らしいものは入っていたが、それが何を証明しているものなのか町の人々は誰も知らなかった。
町の外へ出ることが許されない町民たちは、領主にフィラがどこから来たのか調べてくれるよう頼んでくれたが、領主は多忙を理由に願書に目を通してさえくれなかったらしい。領主がそんな調子では、中央から遠く離れた辺境のユリンでは他に調べる方法もない。
結局、自分が何者なのか、どこから来たのかもわからないまま二年が過ぎてしまった。誰も聞いたことのない訛りはあるが、この町で話されている言葉で話して読み書きもできるのだから、そう遠くから来たわけではないだろうと、フィラを引き取ってくれた酒場の女将は言っていた。領主の許可なしに町を出ることは禁じられているから、何かを思い出すか手がかりが見つかるまでここで働けばいい、とも。
その言葉に甘えている内に、二年。
この二年で分かったことと言えば、自分はピアノが得意らしいということ。この町の誰よりも町の外に関して好奇心があるらしいということ。月に一、二度、自分の意志と無関係に数百メートル程度瞬間移動してしまうことがあるということ。自分が持っていたトートバッグの中に拳銃が入っていて、自分はその扱い方を知っているということ、くらいだ。
無為な二年間だったとは思わないけれど、このままで良いのかと考えると気分は暗くなる。このままこの酒場に住み込みでお世話になっていても良いのか、無理を承知で町の外に出て、自分が誰なのか調べた方が良いのか。でも、記憶がないということは何かの当てもないということだ。
フィラは一つ息を吐き、寝転がったまま大きく伸びをした。いくつかの関節が小さく鳴って、霞のようにたゆたっていた眠気が消えていく。起きあがって天窓を見上げれば、外には朝焼けの空が広がっていた。
よく晴れた一日が、また始まろうとしている。
今日は、酒場は午後から休みの予定だった。踊る小豚亭の主人であるエディスとエルマーの夫妻が、仕入れのために少し遠くへ出かけるからだ。フィラは留守番するつもりだったのだけれど、たまには遊びに行きなさいというエディスの勧めで友人のレックスやソニアと遊びに行くことになっていた。午前中にやってきたソニアが、明け方父親が山に竜が飛んできたのを見たから、自分も見に行きたいと訴えていたので、目的地は山だ。
ユリンは、大地の果てと呼ばれる絶壁の縁に位置している。居住区は町の中心点でもある時計塔を囲むように広がっていて、時計塔広場から十字型に四方へ伸びる大通りは、どれも市街地から少し離れた地点で途絶えていた。
東へ向かう道は草原の途中で草の間に消え、南へ向かう道は惑いの森で、西へ向かう道は大地の果てで途切れる。
今フィラたちが辿っている北へ向かう道も、花畑の広がる白花の丘を越え、急峻な岩山である風泣き山に達したところで終わっていた。
「竜は山の麓に落ちたそうよ。場所はだいたい聞いてるの」
先頭を行くソニアが、振り返って弾んだ声を上げる。
「それって、滝よりも向こうかな?」
猟師見習いのレックスは、フィラの隣をのんびりと歩きながら首をかしげた。レックスは顔つきにも体つきにもまだ幼さを残しているが、猟師見習いとして風泣き山へ狩りについて行くことを許されている自称『立派な社会人』だ。ユリンの町の住人は風泣き山の滝を越えた先へ行くことを禁じられているのだが、森へ入る機会の多い猟師たちは特に厳しくその掟を守っているらしい。
「いやだ、そんな所まで行かないわよ。私たち猟師じゃないもの。麓の森にだってそんなに深くは入れないわ」
ソニアは笑いながら首を横に振り、少し歩調を緩めてレックスとフィラに並んだ。
白花の丘へ向かう道の周囲に広がる草原は、花畑から飛んできた種で様々な色彩に染められていた。半ば野生化した花々は、初夏の眩い日射しを弾いて咲き誇っている。
蜜蜂の羽音、遠くの林で鳴き交わす小鳥たちの声、花や草の、甘いような青臭いような匂い。
のどかな小道を歩いていると、竜なんて存在自体が伝説みたいな生き物が近くに来ているなんて、まるで冗談のようだ。
「あ、そうだ。そういえばこないだ、お城に行ったんだけどね」
ソニアが弾むように歩きながら上機嫌で話し始める。
「新しく来た領主様がたまたま通りかかって、お話しちゃったの」
フィラは思わずぎくりと身体を硬直させてしまった。戻ってきたバルトロが何も覚えていなくて、フィラみたいな一般人が領主と接する機会ももちろんなくて、あの時のことは誰にも相談できないままフィラの胸の中にしまわれている。
「うち、お城にここから運んできた花を納入してるでしょ? もしかしたら領主様にお会い出来るかもって思って、この間父さんに連れて行ってもらったのよ」
「積極的だなあ」
レックスがのんびりと、ソニアが期待したものとはズレていそうな相づちを打ち、ソニアは無視して話し続けた。
「でね、温室に花を運び込んでいたら、綺麗な花ですねって話しかけてくれたの。その後でちょっとだけ、花の名前とか、花言葉とか聞かれてね、もう、感動しちゃった。前の領主とは大違い! 優しいし、紳士的だし、親しみやすくて暖かい感じだし!」
……それって誰の話なんだろう。
引きつった笑いを浮かべながら、フィラは思う。あの時会ったあの人の話だとは到底思えない。とてもそんな、親しげな会話をしてくれる人だとは思えなかった。
「でね、その後父さんとも話してたんだけど、花とお天気のこととか、結構親身になって聞いて下さってたから、父さんも感激しちゃって……」
――そうだ、別人だ。
なおも興奮気味に話し続けるソニアの声を聞き流しながら、フィラはそう結論づけた。
別人に違いない。やっぱりあの人が領主だなんて何かの間違いか夢かどっちかだったのだ。明日あたりバルトロの工房に行けば、バルトロはまた飛行機を作っているに違いない。いつもみたいに。そうだ、そうに決まっている。
理性ではそんなことはあり得ないとわかっていながら、そう信じたくて仕方がなかった。
「聞いてる? フィラ」
「え、あ、うん、えと、想像してた」
ぐるぐる回る思考の海からソニアの不審げな声に引き戻されて、フィラは慌てて頷く。
「そっか、フィラは会ったことないんだっけ?」
「う、うん。たぶん……」
「たぶん?」
「いや……ないよ……」
そうとしか答えようがない。あの人が本当に本物だったとしても、あの時あったことは他言無用と言い含められているのだから。それに逆らったらどうなるかなんて、試してみたいとは思えない。
白花の丘を背に三十分ほど歩いたところで、小道は風泣き山の麓の森へと入っていく。森の縁まで辿り着いた三人は、何か巨大なものを引きずったような跡が風泣き山の方へ続いているのを見つけた。
「ねえ、これってやっぱり……」
ソニアが期待に瞳を輝かせながら、フィラとレックスを振り返る。
レックスは言葉では答えずに、持っていたお弁当入りのバスケットをフィラに手渡して、手近な木に素早く登り、目を細めて跡が続く方を眺めた。
「ずっと奥の方に行っちゃったみたいだね」
風泣き山の方を見ながら、レックスが残念そうに言ってよこす。
「向こうの方の木がなぎ倒されてるんだけど、結構遠くまで続いてる。滝まで行っちゃってるかもしれない」
「そう……残念ね……」
ソニアは一転して表情を曇らせると、ため息と共に肩を落とした。
「ソニア……?」
そのまま何事か考え始めたソニアの顔を、フィラはなんとなく嫌な予感を抱えつつ覗き込む。ソニアはフィラの不安には気づかない様子で、ぶつぶつと何事が呟き始めた。
「でも……そうよ、鱗の一枚くらい……だめかしら?」
ソニアはついに顔を上げ、フィラと木から下りてきたレックスを見て言った。レックスは両腕を組み、難しい表情で考え込む。
「そうだなあ……」
「だって、風泣き山にはそれほど危険な生き物がいるわけじゃないんでしょう? 蛇とか蜂だって、道を歩いている限りじゃ滅多に出ないってあなたのお父様に聞いたわ」
乗り気ではないらしいレックスに、ソニアは早口で畳み掛ける。
「それは、そうなんだけど……でも今は竜がいるし、あれ一応危険な生き物だし、それに僕が一緒にいて二人を危ない目に遭わせたりしたらむちゃくちゃ怒られるような……」
「危険な目に遭わなければいいのよ。それで万事解決、四方八方幸せ、それでいいじゃない。さあ、行きましょう!」
ソニアは一方的に宣言すると、バスケットを振り回しながら勢いよく風泣き山の方へ向き直り、ずんずんと進み始めた。
「……いいのかなあ」
上機嫌なソニアの背中を見つめながら、レックスはあきらめ半分に首をかしげる。
「止める自信ないな、私」
「僕も」
フィラとレックスは顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめた。
「こうなったら、早めに鱗が見つかることを祈るしかないんじゃない?」
フィラは歩き始めながら、レックスへと振り向いて笑う。
「そうだね」
レックスも、半分呆れたような微笑と共に頷いた。
そしてその三十分後に、フィラは二人とはぐれた。
「な、なぜ……?」
暗くどんよりと曇った空を見上げて、フィラは眉根を寄せた。さっきまで確かに晴れていた。二人だって、すぐ側を歩いていたはずなのに。
――もしかして。
今にも降り出しそうな空に雨宿り出来そうな場所を探しながら、フィラは考える。
――また、あの変な体質が発動してしまったのだろうか。
呼んでも返事がないということは、たぶんそうなのだろう。森の風景はどこまで行ってもあまり代わり映えしないものだから、いつどこで瞬間移動したのかはよくわからないのだけれど。
そこまで考えて、フィラははたと足を止めた。だとすると帰り道も分からない、ということに気づいてしまったのだ。
……どうしよう。
フィラは考え、空を見上げ、ため息をつき、とりあえず雨宿り出来る場所を見つけるまで、怖い考えは放置しておくことに決めた。周囲を見回せば、前方には風泣き山の切り立った崖が見える。ここが風泣き山のどの辺なのかわからない以上、遠ざかる方が迷う確率が高そうだ。あまり頼りがいのなさそうな獣道を辿って、フィラは崖の方へと歩き始める。
崖の麓まで辿り着いた後、フィラは今度は西へ向かって崖と平行に行くことにした。ユリンの町の西には、大地の果てと呼ばれる断崖が広がっているから、西へ向かう限り少なくとも町を大きく行き過ぎるということはない。
その名の通り大地がそこで終わってしまったかのような、遥か雲の下まで落ち込んでいる絶壁を思い出して、フィラは小さく身震いした。壮大というより壮絶という言葉の方がイメージに合うようなその崖は、見る者に寒気を催させるような何かを持っている、と、フィラは思う。なんとなくだけれど、苦手な光景だ。
――ともかく、雨が降り出す前にどこか……
思って周囲を見回したフィラは、前方に洞窟を見つけてほっと息をつく。フィラの身長の三倍はあるだろう随分大きな洞窟だ。風泣き山には竜でも出入り出来るほどの大きさの洞窟が珍しくないのだと、町に住む老人に聞いたことがある。ユリンの町が出来る前には、実際洞窟に住み着いていた竜も何匹かいたのだそうだ。
遠くの空では雷が鳴り始めていた。たぶん通り雨だろう。視界が悪い中を歩くより、洞窟で雨が通り過ぎるのを待って帰り道を探す方が危険が少ない気がする。
洞窟に入り、入り口近くに出っ張っていた岩に腰掛けて見上げた空は、不機嫌な灰色に染まっていた。この色を見るのは随分久しぶりだとふと思う。絶望的な灰色、と、誰かが表現していた。誰がどんな場面で表現していたのか全然思い出せないということは、たぶんフィラがユリンの町へ来る前の記憶なのだろう。その『絶望的な灰色』から降り始めた雨は、昔使っていた扇風機と似た音を立てて少しずつ雨脚を強めていく。
昔使っていた扇風機。
自分の思考に、フィラは小さく苦笑した。こんな風に唐突に、なくしたはずの記憶が時々浮かび上がってくることがある。不思議なほどどうでもいいようなことばかり。一緒に暮らしていた人の顔や名前や、住んでいた場所の風景や地名は全然思い出せないのに。
それにしても、雨のような音を立てる扇風機って何だろう。バルトロが以前、飛行機のプロペラを改造して扇風機を作っていたけれど、それはもっとゆっくり静かに回っていた。
本当に、自分はどこから来たのだろう。
「まさか、未来から来た……」
不意に洞窟の奥から地鳴りにも似たうめき声が響いてきて、思わず口をついて出た独り言をかき消した。
「なんて?」
フィラはとりあえず独り言を最後まで言い終えてから、おそるおそる背後を振り向く。
風泣き山名物の、甲高い『風の泣き声』ではない、正体不明の低音だ。この世ならざるうめき声。今日自分がソニアやレックスと何を見に来たのか考えれば、答えは自ずと決まってくる、ような気がしないでもない。
フィラは思わず立ち上がり、膝に乗せていたバスケットを取り落として狼狽し、無意味に両手を動かしてからバスケットを拾い上げ、もう一度おそるおそる洞窟の奥へ目をやった。武器はあるけれど、明かりになるようなものは持っていない。
武器。
拾い上げたバスケットを開き、布にくるんで底に隠しておいたそれを取り出してみる。ハンカチの中から現れたのは、護身用の拳銃――両手に収まるほどの大きさの装弾数五発のリボルバーだ。フィラが外から持ち込んだトートバッグに入っていた物で、見た瞬間に使い方は思い出せた。自分の過去の手がかりとなるものかもしれないけれど、平和なこの町には似つかわしくないものに思えて今まで誰にも見せずにきたものだ。
今日持ってきたのは、竜という生物がもしかしたら危険なものかもしれないと思ったからだけれど、今考えてみるととても武器としては心許ない。平和な町に似つかわしくないとは言っても護身用だから銃身が短くて命中精度に不安があるし、たとえ急所に当てられたとしても威力の方も大したことはない。竜鱗なんて硬いものの代名詞のようなもので覆われている竜にはまず効果がないだろう。
それでも一応、竜だと決まったわけではないんだし、何があるのか確認するだけだから、と自分に言い訳して、フィラはバスケットを足下に置き、銃を両手で構えながら洞窟の奥へと足を踏み出した。