ロゼウス・アルヴェイルには前世の記憶があった。前世もその前も、そのまた前も、延々と繰り返される英雄としての人生の記憶だ。
この遺跡に足を踏み入れるのも、記憶の上だけならもう何度目かわからない。英雄を選定するための試練の遺跡。その最奥では、己が最も恐れるもの――試練の怪物と対峙することになる。
祈導教会の教えでは、世界に歪みが生じれば英雄が選ばれることになっていた。遺跡に挑み、己が最も恐れるものを打ち倒した者は、歪みを具現化する力を――英雄になる資格を得るのだ。
力を得た英雄は歪みの中心へ向かい、具現化された歪みの中心と戦い、世界を修復して、そして――終わる。
それが英雄という役目を背負った者の定めだ。
二人目の英雄が最も恐れたものはドラゴンだった。今思えばかわいらしいものだが、当時はそれでも必死で試練を乗り越えようとしていた。その後も試練は手を替え品を替え、様々な怪物をロゼウスの前に送り出してきたが、一番嫌だったのは、そのときの自分にとって大切な人の姿を取られたときだった。
育ての親、友人、幼馴染み、飼っていた猫。
真似ているのは姿だけとはいえ、手にかけるのがあまりにもつらくて、以後の人生では、意識して大事なものを作らないようにしてきた。
ここ最近は前世の自分が現れるのが常態化していた。自分より強いものがそうそうないとわかってきたからだろう。前回の自分はどんな姿をしていたか……あまり鏡を見た記憶がないのでよく思い出せないが、肉体は今の自分より強靱だったから少し苦戦するかもしれない。
道順どころか罠の位置も謎解きの順番もすべて暗記している遺跡は、そんな考え事をしながらでも着々と進んでいく。崩れかけ、苔むした階段。天上が落ちて日光が差し込んでいる回廊。
余りにも傷んでいる所には用意してきた補強用の魔道具を仕込んでいくが、劣化の具合からして次に転生したときには祈導教会に大規模な補修工事を頼んだ方がいいだろう。この遺跡の維持は、英雄のシステムを、引いては世界を護るために必要不可欠なものだ。
いつもの場所ですっかり手に馴染んだ銃を手に入れ、用意してきた弾丸を込める。銀色のリボルバーを何度か構えてみて、前世との肉体の違いによる違和感を修正し、先へ進む。
試練の間はもうすぐだ。自分と同じように英雄候補として育てられた仲間たちは、恐らくまだ入口付近の謎解きで苦戦しているだろう。試練である以上、この遺跡の構造や罠の配置については、彼らには明確には教えられていない。そして現在の候補の中に、ロゼウスがこの役割を譲っても良いと思えるだけの人材は、残念ながらいなかった。
最短で試練の間に辿り着いたロゼウスは、そこで一息つく。前世の自分の戦い方、自覚していた弱点を思い出し、勝利のイメージを描きだしてから扉を開ける。
見慣れてしまった試練の間は、切った張ったをするには充分な広さを持つ石作りの空間だ。部屋の中には青みを帯びた魔法光が満ち、部屋の奥にはいつもロゼウスが「最も恐れるもの」を吐き出してくる魔法陣があるはずだった。
警戒しながら部屋に足を踏み入れたロゼウスは、違和感を覚えて足を止める。いつもなら入った瞬間に感じるはずの殺気が、今回はない。薄暗い青の光だけでは、部屋の奥までは見通せないので、理由を探るためには奥に進むしかないだろう。試練の怪物がどんな姿を取ったとしても変わらないはずの流れがいつもと違うことに疑問を覚えながら、ロゼウスは油断なく右手に剣を、左手に銃を構えて身長に歩を進める。
部屋の半ばまで進んだところで、青白い光の中、魔法陣の上に座り込む人影がぼんやりと浮かび上がってきた。
その人物への第一印象は、白い、だ。下着のような簡素なワンピースを着た白っぽい髪の少女が、魔法陣の上にぺたりと座り込んでいる。あまりにも無防備なその姿はこちらの警戒心を削ぐ者だが、新手の試練である可能性は否定できない。
警戒を解かぬまま銃口を向けると、少女はようやく気配に気付いた様子で顔を上げた。
「あなたは、だれ?」
ぴたりと銃を突きつけるロゼウスを、少女は何の警戒心もなくじっと見上げる。
迷いのない、静かな声だった。突きつけられた銃口には目もくれず、まっすぐロゼウスを見上げる目が、心の奥まで見透してくるようで、目を逸らしたくなる。今回はまたずいぶんと厄介な試練だと、ロゼウスは一瞬顔をしかめそうになって、すぐ笑顔を作った。
「貴方を殺しに来た者ですよ」
答える必要などない。わかっているはずなのに、反射的に声を出していた。
答えを聞いた少女は、悲しげに目を伏せる。命乞いを聞く前に引き金を引くべきか。そう思って指先に力を込めた瞬間、少女は小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「なぜ謝るのですか?」
わずかに銃口がぶれた。引き金を引くタイミングを逃したまま、ロゼウスは笑顔を消して問いかける。
「悲しませてしまったから……あなたを」
何を言われているのか、理解できなかった。
試練の怪物が話しかけてきたのはこれが初めてだ。いつもならただ襲いかかってくる何かと戦うだけで済む。それだけで終わるのに。
――悲しい。
そんな風に最後に思ったのは、いつだっただろう。少なくとも今ではないはずだ。悲しいなどと、今そんな感傷を抱いてはいない。そのはずなのに、なぜか少女の言葉に胸を突かれたような心地がする。
「声が聞こえたの。あなたを、ひとりにするなって」
さっさと終わらせてしまえという理性の声を無視している間に、少女はもう一度、泣き出す寸前のような表情でロゼウスを見た。
「わたしがここで死んだら、あなたは、ひとり?」
「……そうですね」
いや、誰が死のうと生きようと、自分はずっとひとりだ。そんなことを今さら考える必要などない。彼女の言葉に耳を貸すべきではない。
わかっているのに、会話は続いていく。冷たく突き放す声に苛立ちが混じっているのが自分でもわかる。今さらこんな、旅が始まる前の試練ごときで失敗する気なのかと、自分で自分にうんざりする。
「つれていって。わたしを」
静かな湖水のような、澄んだ青い瞳が、ただロゼウスを見上げる。引き絞ろうとした指が言うことを聞かない。
彼女が試練の怪物ならば、殺さなければ前に進めない。けれど今目の前にいる少女は、これまでのどの試練の怪物とも違う。いつも通り対処することが正しいのか、それとも様子を見てみるべきか。
長い逡巡の後で、ロゼウスはついに白旗を揚げた。本当にろくでもない試練だ。試練の怪物は今までずっと画一的な反応しかしてこなかったのに、いったいなぜ今回に限ってこんな手を使ってきたのか。
「ろくでもない場所にしか行きませんよ」
左手を下ろして、腰のホルスターに銃を収める。空いた手を代わりに差し出すと、少女はためらわずにその手を握る。これが試練ならばその瞬間襲いかかってくるかと思ったのに、拍子抜けするほどあっさりとした仕草だった。
そのまま手を引くと、少女はふわりと立ち上がる。
それでも疑いを捨てきることはできず、試練の間を出る直前くらいで襲いかかってこないかと身構えていたのに、結局少女は何も変わらないまま、ロゼウスのあとをついて部屋を出てきてしまった。
部屋の外に出たところで青年が立ち止まったので、少女も足を止めてその横顔を見上げた。崩れた天井から差し込む陽光に照らされた横顔は恐ろしいほど整って無表情だけれど、不思議と怖さは感じない。左目の下にある小さなほくろが、まるで涙の痕みたいだ。
業物の剣を思わせるすらりとした長身の、氷河を思わせる薄青い銀髪の青年だ。首の後ろで一つに結んだ髪は無造作に左肩に流れている。黒いマントと黒い旅装の中で、白い手袋と緋色のマントの裏地だけが異質だった。
硬質なその横顔がふっと笑みを浮かべて、少女を見下ろす。
「それで、結局あなたは何者なのです? 部屋を出たら正体がわかるかとも思ったのですが」
「正体……」
言われて初めて考える。自分がいったい何者なのか、答える言葉を少女は持ち合わせていなかった。
「わからない。気がついたらあそこにいて、あなたがいた」
「なるほど」
まったく何も納得していない様子で青年は相槌を打ち、右手に持っていた剣を収める。それから彼は優雅にマントを捌いて、音もなく少女の前に跪いた。左胸に右手を当てるその仕草が正式な騎士の礼だと、なぜかわかる。自分のことは何もわからないのに。
「私の名はロゼウス。ロゼウス・アルヴェイルと申します」
ロゼウスと名乗った青年が顔を上げて、新緑のいろの瞳が真っ直ぐ少女を射抜く。きれいだと、その視線を受け止めながら思う。その色も、視線の強さも。
青年は穏やかな笑顔を浮かべているけれど、視線だけは鋭く、じっと少女を見定めようとしている。
「ロゼウス……」
何を求められているのかわからないままちいさくその名を繰り返すと、それで良いと言うように青年が笑みを深めた。
「聞くまでもないかもしれませんが、あなたのお名前は?」
「名前も、わからない。たぶんない、と思う」
最初からそれを予期していたように、ロゼウスは「そうでしょうね」と頷く。
「では名もなき方、貴方に触れる栄誉を私に下さいませんか」
何を聞かれているのかわからなくて、少女は首を傾げた。
「連れ出した以上、責任は取るつもりですが――まず、その足では怪我をしてしまうでしょう?」
言われて自分の足下を見下ろす。裸足の皮膚に尖った小石が突き刺さる感触は、確かに既にあった。
「触れてもよろしいですか?」
やっと意味がわかって頷いた瞬間、身体が宙に浮いたとしか思えないほど簡単に抱き上げられた。その浮遊感に、少女は思わずロゼウスの胸に縋る。
ロゼウスがかすかに笑う気配がした。
「体重は普通の人間のようですね」
「重い?」
「いいえ。羽根のように軽いとまでは申しませんが」
言葉の通り、ロゼウスは軽々と少女を運んで行く。知らない人の腕の中で身動きが取れないのに、不快感はなかった。ロゼウスの仕草がすごく丁寧で、乱暴な感じがしないせいかもしれない。
「先ほどの話に戻りますが、名前がないのも不便ですね。希望の名前はございますか?」
そう言われても、少女が知っている名前はロゼウスの名前ひとつきりだ。言葉はわかるのだから何かないかと考えてみても、結局何も思いつけずに少女は首を横に振った。
「名前……つけ方、わからない」
一歩、二歩、三歩。歩調は変わらないまま、沈黙が流れる。
「ロゼウスは、わかる?」
四歩、五歩。
「いいえ。久しくそんなことはしていないので、忘れてしまいました」
立ち止まったロゼウスが、笑顔を消して少女を見下ろす。さっきまでの鋭く射抜くような視線よりも少女の本質を探ろうとする目が落ち着かなくて、少女は思わず視線を揺らしてしまう。
「そうですね。では、ルーナとお呼びしても?」
その瞬間、少女の凪いだ湖のような心に、ひとつ、波紋が広がったような心地がした。
「ルーナ……」
音楽のような響きのロゼウスの声をなぞって頷いた少女に、ロゼウスは消えていた笑顔をまた貼り付けた。
「ところでルーナ。先に謝っておきたいのですが、この先少し騒がしくなりそうです。どうやら競争相手がやって来たようでして」
ロゼウスが向けた視線の先を辿ると、少し開けた回廊の先から、かすかな足音と松明の明かりが近づいてくるところだった。
ロゼウスがルーナを丁寧な仕草で床に下ろし、肩から外したマントの上に座らせている間に気配は近づいてきて、曲がり角から人影が現れる。
姿勢良く靴音を響かせながら現れたのは、淡い金髪を高い位置で一つに結わえた女騎士だった。意志の強そうな瞳は、少しだけロゼウスに似ているような気がする。
彼女は二人に気付くと、金褐色の瞳を険しく吊り上げてつかつかとこちらに歩み寄ってくる。
「ロゼウス、試練はどうなった? その娘は?」
警戒心も露わに強い口調で問いかけるその女性に、ルーナは思わずびくりと身を縮めた。
「こんばんは、クラリス。良い散歩日和ですね」
対するロゼウスは、必要以上にのんびりとした口調で答えつつ、さりげなく険しい視線を遮るようにルーナとクラリスというらしい女性の間に立つ。
「ふざけているのか? その娘は誰だと聞いている」
さらに怒気を強めた女性の声に、ロゼウスの背中が小さく肩をすくめるのが見えた。
「迷子のお嬢さんですよ」
クラリスは、当然のようにその言葉を信じなかった。
「こんな罠だらけの遺跡のど真ん中に迷子がいてたまるか!」
突然の大声に、ルーナはさらに身体を硬くする。クラリスは一度大きく息を吸って吐き、それでも収まらない怒りに満ちた目でロゼウスを見やった。
「もう一度だけ聞いてやる。試練はどうした?」
「試練はまあ、失敗したんじゃないですかね」
向けられた怒りをものともせずに受け流して、ロゼウスは軽く投げやりに答える。
「はぁ!?」
落ち着きかけていたクラリスの声がもう一度跳ね上がった。
「まさかそれが……その娘が……『試練の怪物』……?」
「だとすると彼女は、私が一番恐れているもの、ということになりますね」
穏やかに答えるロゼウスに、クラリスは信じられないものを見るような視線を向け、次いで戸惑ったようにルーナにも視線を向ける。
「いったい……何を言って……試練を投げ出したと……?」
落ち着きなくロゼウスとルーナを見比べていたクラリスは、やがてぎゅっと口元を引き締める。
「『試練の怪物』を倒して歪みを具現化する力を手に入れなければ、英雄として歪みに立ち向かうことなどできない。それはお前もよくわかっているはずだ。いったいこれから……その怪物をどうするつもりなんだ?」
その声を聞きながら、ルーナは自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じた。理由はわからない。ただ、クラリスの言葉の調子と、自分に向かってくる感情と、『試練の怪物』という言葉の響きが、冷たくて少し怖い。
「怪物と呼ぶのは躊躇われますね。反応を見る限り、ただの人間の女の子ですよ。……そうですね、どうすると問われると、連れて行ってと頼まれてしまいましたので、責任を取るしかないでしょう」
ロゼウスの声は低く穏やかなままで、その声を聞いていると少しだけ心が落ち着く。
「連れて行くって……どこへ連れて行く気だ?」
ロゼウスの肩越しに見えるクラリスの責め立てるような視線に、ルーナは小さく首を傾げた。彼女の疑問は、自分に向かっているような気がした。
「歪みの……向こう……?」
急かされるような気持ちでふっと浮かび上がってきた言葉を小さく呟くと、クラリスの怒気を含んだ視線がまたロゼウスに向けられる。
「馬鹿を言うな。試練を乗り越えずに英雄になれた人間などいないんだぞ」
ロゼウスはその怒気をやはり平然と受け流して肩をすくめた。
「そうですね。試練の間で意思疎通が図れる相手が現れたこともありませんが」
「あったかもしれないじゃないか!」
「ありませんよ」
それまで穏やかだったロゼウスの声がふいに低くなって、クラリスは思わず続く言葉を呑み込んだ様子だった。
「ねえ、クラリス。英雄になるために人を殺せるようになったら、終わりだとは思いませんか?」
続く言葉は今までと同じように穏やかだったけれど、どこか寒気を催させるような何かが含まれていた。
「……っ」
クラリスが怯んだ隙に、ロゼウスは敷いていたマントごと、ふわりとルーナを抱き上げる。
「では、そういうことで」
いつもの調子を取り戻したロゼウスがさっさと歩き出すのを見て、クラリスがはっと我に返った。
「な、何がそういうことだ! 私は報告するからな!」
「どうぞご随意に」
クラリスを置き去りにしたまま、ロゼウスは迷いのない歩調で遺跡から出ていく。振り向きもしないその仕草は、言葉よりも雄弁にどうでも良いのだと告げているようだった。