あれは警備会社に就職して二年目の冬だった。天気予報は降雪を予告していて、寒さが苦手な俺は本気で外に出たくないと思っていた。待機所になっている六畳一間のアパートだって電気ストーブが一台ついているだけでめちゃくちゃ寒かったけど、それでも寒風吹き荒ぶ外よりは全然マシだ。
「雪降ったら出動したくねえなあ」
思わず独り言が漏れる。
「さむ」
ストーブににじり寄りながら、畳の床に放り出していたスマホを拾い上げて暇つぶしのゲームを起動しようとする。着信があったのは、ちょうどその時だった。
「くっそ言ってる側から」
悪態をつきながら画面をタップし、電話に出る。
「おつかれさん。発報あったから港湾区のはしばみ通り図書館へ行ってくれ」
聞き慣れてしまった上司の声に生返事をして、俺は雪の降り出しそうな一月の屋外へしぶしぶ出動したのだった。
現着したときには雪がちらほら降り始めていた。到着を本部に連絡し、外側に異常がないことを確認して、預かっていた鍵で警戒を解除して裏口から中に入る。書庫やトイレの中や倉庫も確認して、すべて異常なしと判断してから、俺は発報の原因になった入り口付近のセンサーカメラの前に立った。
恐らく異常なしだろうとは、最初から思っていた。最初に警報が作動してから、また何かが引っかかった様子はない。カメラの中に虫が入ったとか、入れっぱなしになっていた空調で何かが動いたとか、誤作動の理由はいくらでもある。
一応周囲に動きそうなものがないことを確認して、持ってきた報告書に異常なしの旨書き込む。これを置いて帰れば完了だ。
そう思って顔を上げたとき、視界の端で何かが動いた。大きさからして小さな子どものようだったが、まさかそんなはずはない。
慌てて懐中電灯の明かりをそちらに向けた。暗闇に溶け込むような黒い後姿が振り返る。丸く白い腹がこちらを向いて、俺はそいつの姿を認識した。
そいつはどこからどう見てもペンギンだった。シンプルな白黒の造形からしておそらくアデリーペンギン。あり得ない。ここは動物園じゃなくて図書館だぞ?
ペンギンは眩しそうに目を細めると、よちよちとケツを振りながらこちらへ歩いてきた。そして俺の足元で立ち止まると、つぶらな瞳でじっとこちらを見上げながらくちばしを開く。
「アンタさん、ここがどこかわかるでヤンスか?」
――ぺんぎんが、しゃべった。
思考が真っ白になった。次に考えたのは、これ報告したらお前頭おかしいんじゃないのとか言われてクビになるかな、だった。ただでさえ図書館にペンギンがいましたなんて報告しようがないと思っていたのに、あまつさえしゃべった。あり得ない。
「おっと、まずは名乗るべきだったでヤンスね。失礼したでヤンス。アッシはウィリー。ペンギン族の勇者でヤンス」
ヤンスかよ。勇者というにはずいぶんと庶民的だな。
現実逃避気味にそんなことを考えながら、俺はとりあえず自分の頬をつねってみた。痛い。
「夢じゃないのかこれ……」
「アッシもさっき自分をビンタしてみたでヤンスが、どうもそうらしいでヤンスね」
痛かったでヤンス、と、ウィリーは首を縮めた。
「とりあえず、外に出たいでヤンス。ここがどこだかわからないと家にも帰れないでヤンスからね」
外に出るのに異論はないが、その前に俺は報告書を書いて所定の場所に置いておく必要がある。報告書に……書くのか? これを?
俺は悩みながら異常なしとだけ書かれた報告書を事務室の上座のデスクに置き、裏口の扉を開けた。ペンギンがなんの疑問も抱いていなさそうな能天気な顔で後をついてくる。鍵をしめてセキュリティを入れ、本部に連絡してから、俺は監視カメラに何も写っていないことを願いつつ、ペンギンを小脇に抱えて図書館を後にした。
夜勤が明け、家に帰って眠り込んで、起きたときにはもう夜だった。寝惚け眼をこすって辺りを見回す。
ペンギンは枕元で暇つぶし用に買ってあった漫画を興味深そうに読んでいた。
「おはようさんでヤンス」
俺が起きたのに気付いて、のんきな挨拶をしてくる。
「夢じゃなかったのか」
「アッシもさっきもう一回自分をビンタしてみたでヤンスが、どうもそうらしいでヤンスね。困ったでヤンス」
困ると言う割にはふんぞり返っている。悲壮感の欠片もない。
俺はシャワーを浴び、自分が確実に目を覚ましているという自信を得てからもう一度ペンギンがしゃべることを確認した。残念ながらペンギンの姿が家から消えることはなかったし、話しかければヤンスヤンスと返事をした。こいつは夢でも幻でもない。
その結論に呆然としながら、俺は煙草買ってくると言って外に出た。
最寄りのコンビニは歩いて五分くらいのところにあったが、その前を素通りして地元民から『古街通り』と呼ばれている赤レンガ敷きの路地に向かう。
古街通りには女性が好みそうなアンティークショップやおしゃれなカフェや洋服屋――要するに俺とはまるで縁がない店が並んでいた。
なぜこんな縁遠い場所に足を運んだのかと言えば、ここに幼馴染みが店を出しているからだ。ペンギンがしゃべるなんて馬鹿げた話に耳を傾けてくれそうな相手はほかにいない。
奴の店はレンガ通りからさらに一本、脇に入った小道の行き止まりにあった。ヨーロッパの田舎町か千葉のテーマパークかという小洒落た道にふさわしく、その店も映画に出てくる魔法使いの店みたいな佇まいでそこに建っている。深緑色の看板には金色の文字で「Rain Cats Bookbinding Studio」と書かれていた。
店のロゴが入ったガラス戸を押し開けると、ドアの上でカウベルが涼しげな音を鳴らした。店内には、豪華な装丁の本や様々な色や素材の紙や布や革を並べた棚が並んでいる。カウンターの向こうには広い作業スペースがあって、まるで博物館から持ってきたミシンのような、奇妙で大きな機械が置いてあった。
「いらっしゃいませ」
店の奥から、落ち着いた女の声がした。すぐあとで、声の主が機械や工具の間をすり抜けてカウンターに姿を現す。
少し袖が膨らんだ黒いワンピース。黒いレースの手袋。黒縁の眼鏡。黒いストッキングに黒い靴。何に使うかわからない工具や懐中時計をつけたベルトも黒。全身黒ずくめの姿だが、頭に乗せた小さな丸い帽子だけがえんじ色だ。黙っていれば凄みのある美人だが、さすがに二十年を越える付き合いがある相手に今さら臆することもない。その女が俺の幼馴染にして製本工房レインキャッツの主人、雨宮クロエだった。
「晴翔くん、お久しぶり」
雨宮は俺の姿を認めると、営業用の笑顔をリラックスしたものに切り替えてカウンターから出てくる。
こいつが俺を名前で呼ぶのは、別に親密な関係だからというわけではなく、俺の名字が黒江でこいつの下の名前と同じだからだ。だから雨宮は、出会ったときから俺を下の名前で呼んでいる。
「珍しいね。何かあった?」
「図書館にペンギンがいたんだ」
「あら」
雨宮は軽く眉を上げただけで、特に不審そうな顔はしなかった。
「そのペンギンがしゃべった」
俺は雨宮が勧めてくれたカウンター前の椅子に座りながら、彼女の表情を伺う。さすがに頭がおかしいと思われても仕方のない内容だが、なぜか雨宮は納得した表情で頷いた。
「図書館で出会ったってことは、本から出てきたんじゃないかな」
かなり昔に、似たような会話をしたことがある。その時は立場が逆だった。
「いなくなった猫を探してるんだ」
中学生の雨宮は、古ぼけた絵本を抱えて、妙に緊張した顔で俺の瞳を覗き込んだ。帰宅部だった俺は、閑散とした図書室の隅で、適当な本を広げて昼寝していた。
「なんで図書室で猫探し?」
「本の中から逃げたから」
ほら、と言って彼女が開いた絵本の中には、暖かそうな暖炉の前で、少女が何もない空間に向かって手を伸ばしている絵があった。確かにそこには猫がいてもおかしくない。でも、白く切り抜かれているわけではなく、背景はしっかり書き込まれている。
「晴翔くん、見かけたら教えてね。真っ白な毛並みで、首に赤いリボンをつけた女の子」
雨宮がどこか浮世離れしていたのは小学生の頃からだ。クラスの人間ともつかず離れずの距離感で、授業中に二人組を作れと言われたときにはあぶれることも多かった。同じくあぶれものの俺と、結果として組んだことも何度もある。
「描いてやろうか」
だから、というわけでもない。本当にただの気まぐれだった。自分で描いた絵を誰かに見せるなんて、できればしたくなかったのに。けれど、そう言ったときの雨宮があまりにも嬉しそうだったから、やっぱりやめたとは言えなかった。
本に直接描き込むのではなく、雨宮が持ってきた本に使われているのと同じ紙に描いたんだったと思う。幸せそうに丸まってのどを鳴らす、白い子猫の絵を。
しばらく後に、雨宮は「おかげさまで戻ってきました」と嬉しそうに笑って、例の絵本を見せてくれた。絵本の中には、まるで本当に最初からそこに描き込まれていたように、俺の描いた猫が入りこんでいた。
雨宮がどんな魔法を使ったのかは知らない。恐らく紙をつぎはぎする特別な技術でもあるのだろう。それくらいに思っていた。
「そのペンギンさんは、帰りたがってるの?」
雨宮が興味深そうに目を輝かせる。
「そうみたいだな」
「じゃあ、帰るご本を探してあげないとね」
「探すって誰が」
雨宮は笑顔で小首を傾げる。
――もちろん、俺以外にいるはずがなかった。
翌日、ペンギンが出てくる絵本を探している、と告げた俺に、図書館の司書はとても親切に対応してくれた。図書館から出てくる頃には、俺の手には貸してもらえる上限いっぱいの、十冊の絵本があった。重いとぼやきながら絵本を車に積み込んで、自宅へ戻る。
「おかえりでヤンス!」
昨夜帰ってから絵本の話をしてあったせいか、玄関先で待ち構えていたウィリーは諸手を挙げて俺を歓迎した。きらきら輝く目の中に「我が家 我が家」と書いてあるような気がする。
「この中にあるって保証はないぞ」
あまり期待されてもなかったときの反動が怖い。保険をかけた俺に、ウィリーは上がりがまちからがばっと身を乗り出した。
「探してみる前から何を言うでヤンスか! 気合いが足りないでヤンス!」
妙に熱血なことを言い出す。俺は面倒になって、本を床に置いてテーブルの上にコンビニで買ってきた飯を並べた。ちょこちょこと後をついてきたウィリーの前には奮発して買ってきたししゃもを置く。途端、ウィリーの目の中の文字が「ご飯 ご飯」に変わった。
腹が膨れたところで、俺たちは絵本のチェックにかかった。六畳一間の部屋いっぱいに本を広げる。ウィリーも器用にくちばしでページをめくりながら、自分の故郷を探していた。
「アッシのふるさとは氷の花が咲き乱れるすてきなところなんでヤンスよ。アッシはそこで妻のウェンディーちゃんと生まれたばかりの小さなウィリーと一緒に暮らしていたんでヤンス」
妻帯者かよ。しかも子持ち。
突き出た腹以外にまったく貫禄のないペンギンの横顔を眺めながら、俺はなんとも言い難い複雑な心持ちになった。
「氷の花は白夜になるといっせいに光る胞子を飛ばすんでヤンス。とってもロマンチックなんでヤンスよ。今年もウェンディーちゃんと一緒に見ようねって約束してたのに……」
ウィリーは悲しそうにため息をついて、がっくりと頭を垂れた。
「氷の花ねえ……」
慰める言葉が思いつかない俺は、いたたまれない気持ちで本のページをめくる。どの本にもちゃんといるべきところにペンギンがいて、ウィリーの入り込む隙間はない。
「氷の花……ん?」
最後の一冊を見終えた俺は、ふと床に散らばった本に目をやっておかしなことに気付いた。借りた覚えのない本が混じっている。他の本に半分隠れるようにして落ちていた、図書館の本であることを示すバーコードも蔵書印もない本。すっかり色褪せ、表紙も半分取れていて、背表紙はどこかにいってしまったのかボール紙が剥き出しになっている。中の紙も一部に泥をかぶったような水濡れのあとがあった。いくらなんでもここまでぼろぼろの本があったら覚えていないわけがない。
思わず他の本を数えてみるが、そいつを入れずにちょうど十冊。図書館で借りられる上限。
「なんだこれ?」
一見ペンギンは関係ないようだ。汚れてしまっているので少しわかりにくいが、表紙には真っ白な雪原に咲き乱れる青白い氷の花が一面に描かれている。タイトルが入るのだろう部分にはただ暗い色の空が広がっていた。
「あっ、その場所は!」
「うわ!」
声と同時にウィリーが飛びかかってきた。とっさに避けた俺の横に、バランスを崩したウィリーが倒れ込む。
「ひ、ひどいでヤンスぅ……」
畳の間にくちばしをつっこんでしまったウィリーは、涙目でそう言った。
確かにウィリーはこの本から出てきたらしい。本人もあまりにぼろぼろな本にがっかりしつつもそうに違いないと言うので、俺はさっそく雨宮の店に向かった。
本を見た雨宮は、一瞬はっとした。本を受け取りながら痛みを堪えるような表情をしているのは、本の状態があまりに悪いからだろうか。
「あのときは確か、同じ本を見て猫を描いたんだったよな」
丁寧な手つきで本を開いたり裏返したりしていた雨宮は、何か納得したように頷いた。
「うん。でも、この本と同じものを探すのは無理だと思う」
俺にも見えるように、裏表紙を開いたところをこちらに向けてくる。
「ほら、奥付もないし、作者名も書いてない。自家出版の本だね。もしかしたらこの世にこの本一冊しかないのかも」
雨宮は顔を上げて、なぜか寂しそうに微笑んだ。
「状態はかなり悪いけど、できるだけ修理してみる。でも、一部のページは作り直さないと厳しいかな。晴翔くん、また描いてもらっていい? 明日までに必要な紙と見本のコピー用意しておくから」
久しく手にしていなかったアクリル絵の具の二十四色セットを、仕事の帰りに買ってきた。雨宮でもどうにもできなかった、描き直さなければならない絵は二枚。一番汚れがひどかった最後のページと、表紙の絵だ。
絵の描き方、思い出せるだろうか。絵を最後に描いたのは雨宮に頼まれたときだ。子どもの頃は絵を描くのが好きで、習いに行ったりもしていたのだが、中学校では美術部にすら入らなかった。
「架空の風景なんだし、思うままに描いてみればいいと思う」
俺の絵でいいのか、ブランクもあるし、上手く描けなかったらウィリーが戻れなくなるんじゃないかとぐだぐだ言い訳した俺に、雨宮は慈愛の笑みを向けた。
「大丈夫、ちゃんと描けるよ。ウィリーくんもいるんだし」
その圧に屈して、俺は今クロッキーブックに下書きをしている。最後のページは下半分が破り取られていて、上半分の夜空しかないから、まずはヒントが多い表紙から。そう思って描いてみるものの、妙に緊張して線が震える。思い通りに描けない。
「大丈夫でヤンスか? なんか手がぷるぷるしてるでヤンスが」
「いや……」
大丈夫だ、と言いたいところだが、自分でも大丈夫ではないことがわかってしまう。
「アッシがポーズを取れば描きやすいでヤンスかね?」
俺の戸惑いを感じたのか、ウィリーはコタツテーブルの上でバレリーナのような妙なポーズを決めてみせた。
「いや、そんなポーズ描く予定ないけど」
「じゃあこんなのは?」
今度は寝転がってセクシーポーズ。なんだかツッコむのもバカバカしくなってきた。
「普通にしてろよ」
迷っていても仕方がない。俺は頭を空っぽにして、まずは表紙の絵から取りかかることにした。
雨宮が汚れを落としてくれたおかげで、見本のコピーは最初に見た時よりも絵柄がはっきりしていた。白く光る氷の花畑の中で、ペンギンが一羽、夜空を見上げている。中央より少しだけ左側に寄ったその後ろ姿は、まるで世界の果てに取り残されたように寂しげに見える。
俺は全体にあたりをとった後で、ペンギンの姿を描き込み、そこでいったん手を止めた。
「ウィリー、ちょっと後ろ向いてみてくれ」
「こうでヤンスか?」
興味津々に首を伸ばして俺の作業を見ていたウィリーは、さっと背中を向けてまたバレリーナのようなポーズをとる。
「いや、隣にウェンディーちゃんがいるつもりで演技してくれ」
「アッシの隣に! ウェンディーちゃん!」
ウィリーはとたんにテンションマックスになって、両方のフリッパーをぱたぱたと羽ばたかせた。今にも空を飛び始めそうな勢いだ。
「お前いつもそんなテンションでウェンディーちゃんと過ごしてるのか」
「当たり前でヤンス! ウェンディーちゃんはそれはもうかわいくてかしこくてかわいくて」
「わかったわかった」
おざなりに返事をしながら、興奮するペンギンの後ろ姿を一羽だけいたペンギンの横に描き加えていく。たったそれだけの変化なのに、不安で寂しかった絵が一気に愉快で楽しげな雰囲気になってしまう。
筆が乗ってきた俺は、時間を忘れて描き続けた。
「あれ、黒江じゃないか。久しぶりだな!」
早く帰って続きを描きたいと思いながら仕事帰りにスーパーで買い物をしていたら、誰かから声をかけられた。
その顔を見た瞬間、相手が誰だか思い出す前に背中に嫌な汗が滲む。
「……須藤」
小学校から中学校にかけて、俺にさんざん嫌がらせをしてくれた奴だ。小五のときに転校してきた俺は、何か初日で奴が気に入らないことをやらかしてしまったらしい。特に絵を描いていると、絵を描くなんて女のやることだとか、運動できないから逃げてるんだろとか、絵だって大して上手くないくせにとか、とにかく失礼なことを言ってきてクラスの他の奴らと一緒になって笑いものにしてきた。
「懐かしいなあ。お前まだ絵描いてんの?」
関わるだけ時間の無駄だ。声を聞いてるだけで未だに気分が悪い。「俺、絵が下手だったからお前がうらやましくてさあ」とか話し続ける奴を無視して、俺はさっさとレジに並んだ。
恐らく、あいつは謝りたかったんだろう。でもそうされたところで何も変わらない。中学で絵をやめてしまったことも、破かれた絵が戻ってこないことも。
絵を、破かれた。そうだ。
レジを終えて店の外に出たところで、俺は呆然と立ち止まる。
どうして忘れていたんだろう。俺が絵をやめたきっかけは、あいつに絵を破かれたからだった。
転校してきた俺の隣の席だったのが雨宮で、名前のつながりもあって初日から仲良くなった。雨宮の書いた童話に俺が絵をつけて、それをまた雨宮が製本した。須藤はそれを破ったのだ。殴り合いの結果、俺は負けて、それ以来絵を描くのも嫌になった。
どうしてこんな大事なことを忘れていたんだろう。雨宮はどういう気持ちで、俺に絵を描けと言ったんだ?
「あっ、はるとー、おかえりでヤンス!」
玄関を開けた途端緊張感のない声が飛んできた。
「ど、どうしたでヤンスか?」
玄関先にうずくまった俺に、ウィリーはもとから白黒の目をさらに白黒させる。間抜けな口調に、緊張していた身体から力が抜けていくのを感じた。
どうして忘れていたんだろう。小学校の頃、俺と雨宮はただのクラスメイトじゃなくて親友だった。一緒に物語を考えて、一緒に本を作った。転校初日に俺がノートの隅に落書きしていたペンギンを見つけて、雨宮が名前をつけた。それがウィリーだ。
壊れた本を見て、雨宮がどんな表情をして、何を言ったのか、俺は覚えていない。でもそれ以来、俺たちはほとんど話すことがなくなったんだ。
どうして、忘れていたんだろう。
絵が完成したら、そのときのことを雨宮に聞いてみよう。決心した後は、さらに絵に集中できた。描いていなかったぶん腕はしっかり落ちていたから、何度も練習を繰り返し、下書きにも手を入れて少しでも以前の水準に近付けようと努力した。白夜の花畑の中で二羽のペンギンが寄り添う表紙。空を飛べない落ちこぼれのペンギンが、幼馴染みと結婚するために世界の果てまで行って勇者になって帰ってくると約束するシーンだ。
最後のページは、再会した二人と生まれた子どもが、同じ場所で白夜の空へ氷の花が胞子を飛ばすのを眺めている絵だった。思い出してしまえば、イメージを浮かべるのは簡単だ。それを絵にしていく技術だけが足りない。
仕事の待機時間にも、休みの日にも、俺はひたすら絵を描き続けた。なんとかこれでよしと思える仕上がりになるまで、半月ほどかかった。
「その子がウィリーちゃん?」
完成した絵とペンギンを抱えて閉店後の店に入ってきた俺を見て、雨宮はぱっと笑顔になる。
「そうでヤンス!」
ウィリーはもぞもぞと俺の腕から抜け出し、半回転ひねりをして着地した。ついでにドヤ顔でポーズも決めてみせる。雨宮は「わあ」と瞳を輝かせてカウンターから飛び出てくると、まっしぐらにウィリーの前にかがみ込んで頭を撫でた。
「かわいいねえ」
俺の落書きを見つけたときと同じ台詞、同じ表情。なんだか眩しいような心地になって、俺は目を逸らす。
「絵が、描けたから。これでいいかわからないけど」
俺が絵を差し出すと、雨宮はゆっくりと立ち上がって、おずおずと手を伸ばした。こわれものを扱うように受け取って、恐る恐る絵を見下ろす。絵を眺める間の沈黙がやけに長く、恐ろしく感じられる。
実際にはほんの一瞬のことだったんだろう。やっと雨宮が微笑んだとき、俺は心底ほっとした。雨宮にがっかりされるのが死ぬほど怖かった。
「……よかった」
潤んだ雨宮の瞳を見て、思い出した。壊れた本を抱えて、泣いていた彼女のことを。私のせいだ、ごめんなさいと繰り返し繰り返し謝っていた悲しそうな声を。
「忘れててごめん」
「ううん。私が忘れさせたから」
とんでもないことを言われた気がするが、ペンギンがしゃべるんだからそういうこともあるかもしれない。どう答えたらいいかわからなくて、俺は首を横に振っただけだったが、雨宮はなにかつかえが取れたみたいに嬉しそうに笑った。
しばらくはにかみ合っていた俺たちのこっぱずかしい雰囲気をぶち壊したのは、ウィリーの「あのう、アッシのこと忘れてないでヤンスか……?」という切ないひとことだった。
本の完成は三日後だった。店に入ると、雨宮はカウンターで待っていてくれた。
「できました」
カウンターの上にウィリーを降ろし、雨宮が奥から本を持ってくるのをじっと待つ。現れたのは、紺色に染めた革で背表紙が補強された立派な絵本だった。表紙のウィリーとウェンディーが見上げる空には、銀の箔押しで「ゆうしゃ ウィリーの だいぼうけん」と書かれている。
「ウェンディーちゃん……」
ウィリーはうっとりと本に見とれながら、身を乗り出した。
「どうかな、ウィリーちゃん」
「ばっちりでヤンス! 覚えている通りでヤンスよ! これでウェンディーちゃんのところに帰れるんでヤンスね!」
ウィリーは興奮してフリッパーをぱたぱた動かす。そうだね、と答える雨宮の指先を見つめながら、俺は素直に喜べない自分に気付いていた。だが、寂しいからといってウィリーを引き留めるわけにもいかない。雨宮だってそのためにがんばってくれたんだ。
「じゃあな、ウィリー」
「ウェンディーちゃんとお幸せにね」
「まかせろでヤンス!」
ウィリーはぴょこんと顔を上げると、えらそうに胸を張ってみせた。
「それじゃあお二人さん、ありがとさんでヤンス! アディオス!」
なんでスペイン語、とツッコむ間もなく、ウィリーは水に飛び込むように絵本の中に飛び込む。
表紙のウィリーが一瞬こちらを振り向いてドヤ顔をした気がした。けれどすぐにペンギンはもとの後ろ姿に戻って、それきり動かない。
長い長い沈黙のあとで、どちらからともなくため息をついた。
「晴翔くん、この子、連れて帰って……くれるかな?」
顔を上げた俺は、雨宮の懇願するような上目遣いを真正面から見てしまって、心底後悔した。照れるなんてもんじゃない。断れるわけは、もちろんなかった。
そして、いつもと代わり映えのしない日常が戻ってきた。昼勤を終えて夕飯を買い、家に戻る。戻っても誰もいないとわかっている家に帰るのが、少しだけ寂しく感じることもある。とくに寒さがきつい夜なんかには。
「おかえりでヤンス!」
しんみりしながら扉を開けた俺の耳に、感傷なにソレおいしいのと言わんばかりの緊張感のない声が飛び込んでくる。
「ちょ、おま、せっかく苦労して戻ったのになんでまた出てくるんだよ!」
「アッシはアンタさんのことが気に入ったんでヤンスよ。たまにおしゃべりしにくるくらいイイじゃないでヤンスか!」
フリッパーをぱたぱた動かしながら、ウィリーはえらそうにそう言った。